帯解寺のはじまり
帯解寺は、弘法大師(空海)の師である、勤操大徳が開かれた巖渕寺というお寺の塔頭の一つでした。美しい松があったため、名を「霊松庵」といいました。
今からおよそ1200年前、第55代文徳天皇の妃である染殿皇后(藤原良房公の娘)は、永い間お子が生まれず、大変お悩みでありました。
そんな折、藤原家の祖神である春日明神の「奈良から南に一里(約4km)のところに、腹帯をした地蔵菩薩があるので祈願せよ」とのお告げがあったのです。
早速、お告げの通りに当寺の地蔵菩薩にご祈願されたところ、まもなくご懐妊され、次代の天皇となられた清和天皇を無事ご安産になられました。
文徳天皇は大変お喜びになり、天安2年(858年)春、更に伽藍を建立され、「無事に帯が解けた寺」、帯解寺(おびとけでら)と名付けられたのです。
ここから、帯解寺の名前は広く全国に知れ渡ることとなりました。